コラム「この先生にきいてみよう」
第8回 「水に濡れ」たら、よみがえる。
川東 雅樹 先生(教育文化学部 教授)
大学ではどんなふうに考えるのか、表現芸術を例にとって考えてみましょう。
小説や映画で、土砂降りの雨に降られたり、池や川で溺れたりするシーンがあるとします。あなたならどう読みとりますか。濡れて大変だろうなとか、なんとか助かればいいなという気持ちで、読んだり眺めたりして終わりですか。それがよくないというつもりはありませんが、ちょっと物足りないですね。目の前にあるものだけが現実で、それ以外に現実は存在しないという姿勢。そういう考え方が有効な場面があることを否定するつもりはありませんが、それだけでは芸術や文学といった表現を目的とする作り物に接する意味がありません。見えているものとは違う何かがあるかも知れない、見えているものはいろいろある可能性のうちのひとつが実現したものにすぎない、あるいは別の何かを隠すための仕掛けではないか、と想像をふくらませるのが、大学ですることです。
では「水に濡れる」ということの背後に何があるのでしょう。キリスト教圏文化だと、たいていは「洗礼」が象徴化されているのでは、と疑ってかかります。ただ儀式としての洗礼ではなく、生まれ変わる、新たな生を歩み始めるという意味での洗礼です。主人公に大きな転機がおとずれたわけです。ノアの洪水というエピソードが背景にあるとも考えられます。毎朝シャワーを浴びたら、生き返ったような気持ちになって、その日を新たに始める元気が出てきますが、案外同じことなのかも知れません。文学を深く知れば、現実そのものを別の体験に変えることができます。
いきなりこんな突拍子もない解釈を示されても、にわかに納得できないでしょう。なぜそうなるのか理屈がまったく理解できない、と思う人もいるはずです。そこが出発点になります。高校だったら「分からない」ということは苦痛かもしれません。「分かる」ことが前提の事柄を学んでいるからです。でも大学では「分からない」というのは快楽なのです。これからいくらでも思考の実験を愉しめるのですから。そもそも世の中で起きていることは分からないことばかりだとすれば、これに備えて知性を鍛えるのに絶好の場ということになります。失敗し、間違う若者を励ます空間です。